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HARLEY-DAVIDSON HISTORY
ハーレーダビッドソンの歴史 —— 1903年から現在まで
1903年、アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキー。裏庭に建てた木造の小屋から、すべてが始まりました。
自転車にエンジンを載せてみよう。二十代前半の若者たちが抱いたその思いつきは、やがて世界でもっとも名前を知られたモーターサイクルブランドになりました。二度の世界大戦、世界恐慌、輸入車の攻勢、経営権の売却と買い戻し、環境規制と電動化。ハーレーダビッドソンの120年あまりは、決して順風満帆な歩みではありません。むしろ何度も存亡の淵に立たされ、そのたびに乗り越えてきた歴史です。
いまショールームに並ぶ一台一台にも、その時間が流れ込んでいます。時代ごとに、たどってみましょう。
1903 — 1908
THE SHED
木造の小屋から
ウィリアム・S・ハーレーとアーサー・ダビッドソンは、ミルウォーキーで育った幼なじみでした。二十歳そこそこだった二人は、自転車にエンジンを取り付けるという当時の流行に取り組み、1903年、一台のモーターサイクルを完成させます。作業場は、ダビッドソン家の裏庭に建てられた小さな木造の小屋。扉には手書きで「Harley-Davidson Motor Co.」と記されていました。
最初の一台は、自転車のフレームにエンジンを載せただけの単純なものでした。しかし彼らはすぐに、それでは丘を登れないことを知ります。専用のフレームを設計し、フライホイールを大きくし、排気量を上げる。試行錯誤のなかで、機械は年々たしかなものになっていきました。やがてアーサーの兄ウォルター・ダビッドソン、そして長兄ウィリアム・A・ダビッドソンが加わります。ウィリアムは鉄道会社の工具長を務めていた実務家で、工場を組み立てられる人物でした。四人の役割分担 —— 設計、営業、走り、製造 —— が、この会社の骨格になります。
1907年に法人化。生産台数はまだ年に数百台の規模でしたが、頑丈で壊れにくいという評判が、口伝えに広がっていきました。1908年、ウォルター・ダビッドソン自身がハンドルを握った耐久レースで完璧な成績を収め、燃費記録も打ち立てます。創業者が自ら走って証明してみせたこの出来事は、「壊れないハーレー」という評判を決定づけました。
1909 — 1919
THE V-TWIN
Vツインとバーアンドシールド
1909年、ハーレーダビッドソンは二気筒をV字に配置したエンジンを発表します。今日まで続くVツインの始まりでした。もっとも最初の型は完成度が高いとは言えず、いったん取り下げられ、数年をかけて設計を練り直したうえで再登場します。この慎重さは、その後もこの会社の性格として残りました。新しさに飛びつくより、確実に走るものを出す。
1910年ごろには、あの「バーアンドシールド」のロゴが使われはじめます。横棒と盾を組み合わせたシンプルな意匠は、100年以上ほとんど姿を変えずに受け継がれ、世界でもっとも認知度の高い商標のひとつになりました。
第一次世界大戦がこの会社を大きく変えます。アメリカ陸軍は伝令や偵察のためにモーターサイクルを必要とし、ハーレーダビッドソンは生産の多くを軍用に振り向けました。戦地で酷使される環境は、耐久性を鍛える試験場でもありました。同時に会社は、軍や販売店の整備士を育てる学校を設け、整備できる人を各地に増やしていきます。売って終わりではなく、直せる体制をつくる。正規ディーラー網という発想の原型が、このころに生まれました。
1920 — 1929
THE WRECKING CREW
世界最大のメーカーへ
1920年代に入るころ、ハーレーダビッドソンは世界最大のモーターサイクルメーカーになっていました。販売網は数十か国に広がり、ミルウォーキーのジュノー・アベニューにある工場は拡張を重ねます。
この時代を象徴するのがレースです。木の板を敷き詰めた高速オーバルコース「ボードトラック」で、各社のマシンが時速160キロ近い速度で争いました。ハーレーダビッドソンのワークスチームは連戦連勝を重ね、対戦相手から「レッキング・クルー(解体屋)」と呼ばれるようになります。勝つために磨かれた技術は市販車へ流れ、レースで名を売る手法もこの時期に確立しました。
一方で自動車の価格が下がり、モーターサイクルは「安価な移動手段」の座を明け渡しはじめます。実用品から趣味の乗り物へ。ハーレーダビッドソンが向き合うことになる長い課題が、このころ静かに始まっていました。
1930 — 1939
THE KNUCKLEHEAD
大恐慌を生き延びる
1929年の世界恐慌は、モーターサイクル業界を壊滅させました。かつてアメリカには200社を超えるメーカーがあったといわれますが、1930年代を生き残ったのは、ハーレーダビッドソンとインディアンの二社だけでした。販売台数は最盛期の数分の一まで落ち込み、従業員も大きく減らさざるを得ませんでした。
それでも会社は開発をやめませんでした。1936年に登場した「EL」、のちにロッカーカバーの形からナックルヘッドと呼ばれるようになるモデルは、それまでのサイドバルブに代えてOHV(オーバーヘッドバルブ)を採用し、大幅に性能を高めた一台です。力強さと、涙のしずくのような美しい燃料タンクの造形。多くの人がこのモデルを、現代につながるハーレーダビッドソンの原型と見なしています。
経営が最も苦しい時期に、会社の未来を決める一台を出す。この判断が、次の時代を支えました。
1940 — 1949
THE WLA
戦争、そして帰還兵たち
第二次世界大戦で、工場はふたたび軍需へ切り替わります。オリーブドラブに塗られた軍用モデル「WLA」は数万台が生産され、連合軍とともに世界各地の戦場を走りました。民間向けの生産はほぼ停止し、会社は軍からの表彰を受けるほどの供給責任を担います。
戦後、この経験が思わぬ形で文化を生みます。軍でモーターサイクルに親しんだ若者たちが復員し、放出された軍用車を安く手に入れて乗りはじめたのです。余分な装備を外し、フェンダーを切り詰め、軽く速くする。ボバーやチョッパーと呼ばれるカスタム文化は、この帰還兵たちの手から生まれました。仲間で集まって走るクラブが各地にでき、モーターサイクルは移動の道具から、生き方をあらわすものへと変わっていきます。
1948年、ナックルヘッドの後継としてパンヘッドが登場。アルミのシリンダーヘッドと油圧式のバルブ機構により、信頼性が一段と高まりました。翌1949年には前輪にテレスコピックフォークを備えた「ハイドラグライド」が加わり、乗り心地が大きく改善されます。現在も続く「グライド」の名は、ここから始まりました。
1950 — 1959
THE SPORTSTER
スポーツスターの誕生
1953年、長年の競争相手だったインディアンが生産を終えます。アメリカ国内でハーレーダビッドソンは唯一の大手メーカーになりましたが、安心はできませんでした。海の向こうから、軽く速いイギリス製のモーターサイクルが流れ込んできたからです。
対抗策として1952年に「Kモデル」を投入。そして1957年、その発展形としてXLスポーツスターが誕生します。OHV化された排気量883ccのVツインを、軽量な車体に積んだこのモデルは、大排気量ツアラーとは別の性格を持つ一台でした。以来、スポーツスターは半世紀以上にわたって作り続けられ、ハーレーダビッドソンでもっとも長く生きたシリーズになります。「はじめてのハーレー」として選ばれることも多い一台です。
1958年には後輪にサスペンションを備えた「デュオグライド」が登場します。前後にサスペンションを持つ、現代的な大型ツアラーの姿がここで整いました。
1960 — 1969
THE ELECTRA GLIDE
セルスターターと、時代の変わり目
1965年、セルフスターターを備えたエレクトラグライドが登場します。キック一発で目を覚まさせるのがモーターサイクルという常識のなかで、ボタンひとつでかかる大型車は画期的でした。現在のツーリングファミリーは、この一台の直系にあたります。翌1966年にはエンジンがショベルヘッドへと進化しました。
同じ1965年、ハーレーダビッドソンは株式を公開します。設備を近代化するための資金を必要としていました。そして1969年、レジャー用品を手がける大企業AMFの傘下に入ります。
この年、映画『イージー・ライダー』が公開されました。改造されたパンヘッドがアメリカの荒野を走る映像は世界中に届き、ハーレーダビッドソンは「自由」の記号として受け取られていきます。皮肉なことに、ブランドの神話が完成したのとほぼ同じ時期に、会社そのものは最も苦しい時代へ入っていきました。
1970 — 1979
THE FACTORY CUSTOM
ウィリー・G の仕事
AMF時代は、しばしば暗黒期として語られます。生産台数を急激に増やそうとした結果、品質が落ち、オイル漏れや故障の評判が広がりました。折しも日本製の高性能なモーターサイクルが市場を席巻し、ハーレーダビッドソンの立場は急速に悪化します。
ただし、この時代に大切なものも生まれました。創業者の孫にあたるデザイナー、ウィリアム・G・ダビッドソン(ウィリー・G)は、街のカスタムシーンに足を運び、乗り手が自分の手でどう変えているかを見て回りました。そこで得た答えが、1971年の「FXスーパーグライド」です。大型車の車体に、スポーツスターの細い前まわりを組み合わせる。工場が最初からカスタムの姿で出す —— ファクトリーカスタムという考え方は、ここから始まりました。
1977年には、低いシート高と段付きシートを特徴とする「ローライダー」が登場。性能競争とは別の軸で選ばれる価値を、ハーレーダビッドソンは磨いていきます。数値ではなく、佇まい。この方針が、次の10年で会社を救うことになります。
1980 — 1989
THE BUYBACK
13人が会社を買い戻した
1981年、ウィリー・G を含む13人の経営陣が、AMFからハーレーダビッドソンを買い戻します。多額の借入を背負った、後のない賭けでした。買収完了を祝うパレードで掲げられたのが「The Eagle Soars Alone(鷲は独りで舞う)」という言葉です。
彼らがまず取り組んだのは、派手な新型ではなく品質でした。日本メーカーの生産方式を研究し、在庫を絞り、現場の作業者に品質の判断を任せる。地道な改革が続きました。1983年には大型輸入車への関税措置が発動され、時間的な猶予も得ます。ただしハーレーダビッドソンは、期限を待たずに関税の早期終了を自ら申し出ました。自力で戦えるようになったという宣言でした。
1983年にはH.O.G.(ハーレーオーナーズグループ)が発足。買ってくれた人と長くつきあうという発想は、いまも世界最大級のオーナーズクラブとして続いています。そして1984年、待望のエボリューションエンジンが登場。オイル漏れが少なく、よく回り、壊れにくい。同年には、リアサスペンションを車体下に隠して往年のリジッドフレーム風に見せるソフテイルが加わりました。古い佇まいと現代の乗り心地を両立させるこの発想は、いまも続いています。
1990 — 1999
THE FAT BOY
世界的なブームへ
1990年に登場したファットボーイは、ソリッドディスクホイールと太いシルエットで強い印象を残し、映画にも登場して一躍有名になります。品質の回復と、ブランドの物語。二つがかみ合ったことで、1990年代のハーレーダビッドソンは世界的なブームを迎えました。
日本でも大型二輪免許の教習所での取得が可能になったことなどを背景に、ハーレーダビッドソンに乗る人が大きく増えていきます。納車まで待つのが当たり前という時期もありました。1999年には、エボリューションの後継となるツインカム88エンジンが登場します。
この時代のハーレーダビッドソンは、性能で他社と競うことをほとんどやめていました。代わりに売っていたのは、鼓動、音、佇まい、そして仲間と走る時間です。それは弱さの裏返しではなく、選び取った戦略でした。
2000 — 2009
THE 100TH ANNIVERSARY
100周年と、新しい試み
2003年、創業100周年。ミルウォーキーには世界中からライダーが集まり、記念モデルが各シリーズに用意されました。この時期のハーレーダビッドソンは、業績も株価も好調でした。
2001年には、それまでの路線と大きく異なるV-RODが登場します。ポルシェの技術協力を得て開発された水冷DOHCの「レボリューション」エンジンを積み、高回転まで一気に吹け上がる。伝統的な空冷Vツインとは別の世界を提示した意欲作でした。
2008年にはミルウォーキーにハーレーダビッドソン・ミュージアムが開館。創業以来の車両や資料が公開され、いまも世界中のファンが訪れる場所になっています。一方で同じ2008年、世界金融危機が需要を直撃しました。翌年には子会社ブエルの生産終了を決めるなど、事業の絞り込みを迫られます。
2010 — 2019
THE MILWAUKEE-EIGHT
刷新と、次の世代へ
2010年代のハーレーダビッドソンは、二つの課題に向き合いました。ひとつは主力顧客の高齢化。もうひとつは年々厳しくなる環境規制です。
2017年、ツーリングモデルに新型のミルウォーキーエイトエンジンを搭載。1気筒あたり4バルブとし、出力と冷却性能、そして振動対策を大きく改善しました。2018年モデルではソフテイルの車体を全面的に刷新し、それまで別系統だったダイナのモデル群も新しいソフテイルへ統合されます。フレームを一新して軽量化と剛性向上を果たしたこの世代交代は、ここ数十年で最大級の変更でした。
そして2019年、量産電動モデルLiveWireが登場します。音も鼓動もない一台をハーレーダビッドソンが出したことは、賛否を含めて大きな話題になりました。伝統を守るのか、次へ進むのか。この問いは、いまも続いています。
2020 — 現在
THE REVOLUTION MAX
走る場所を広げる
2021年、ハーレーダビッドソン初の本格的なアドベンチャーツーリングモデルパンアメリカ1250が発売されます。新開発の水冷Vツイン「レボリューションマックス」を搭載し、舗装路も未舗装路も走る。停車時に車高が自動で下がる機構など、実用に踏み込んだ装備も注目されました。長く「まっすぐな道を走る乗り物」と見られてきたブランドが、走る場所そのものを広げにいった一台です。
同じエンジン系統からスポーツスターS、続いてナイトスターが生まれ、長く空冷で親しまれてきたスポーツスターの名は水冷世代へ引き継がれました。2021年にはLiveWireが独立したブランドとして切り離され、電動は電動として育てる体制になります。
2023年には120周年を迎え、アジア市場向けの小排気量モデルX350・X500も登場しました。2024年モデルではストリートグライドとロードグライドが刷新され、ツーリングファミリーは新しい世代に入っています。
AND NOW
そして、いま
120年をたどってみると、ハーレーダビッドソンが一度も安泰でなかったことがわかります。恐慌で同業者が消え、戦争で工場が切り替わり、輸入車に押され、経営権を手放し、買い戻し、規制と向き合う。そのたびに残ったのは、走って確かめ、直して乗り続けるという姿勢でした。
いまショールームに並ぶ一台は、その積み重ねの先端にあります。ツーリングファミリーはエレクトラグライドから、ソフテイルは1984年の発想から、スポーツスターの名は1957年から続いています。年式の新しさだけでは測れないものが、それぞれの車体に入っています。
読んで知るより、またがってみるほうが早いこともあります。気になる一台があれば、店頭でご覧ください。レンタルでお試しいただくこともできます。
ハーレーダビッドソンの歴史は資料によって年代や数値に幅があります。本ページは広く知られている出来事をもとに、時代の流れがつかめることを重視して構成しています。個々の車両の詳しい仕様については、店頭にてお問い合わせください。
